高尾山古墳の位置

高尾山古墳は静岡県沼津市東熊堂に位置する、古墳時代初期の東日本最大級の前方後方墳です。
 この古墳の発見は、沼津市の都市計画道路「沼津南一色線」の計画地内にあり、現在隣接地に移転されている熊野神社・高尾山穂見神社敷地と、以前より遺跡であろうと推測されてきた旧神社境内丘陵部の試掘調査によるものでした。2005年度(平成17年)に行われた神社移転予定地と神社丘陵部の試掘調査によって周溝・土師器などが検出され、方墳ではないかと推定され、その後の本調査によって、長野県松本市の弘法山古墳(国指定史跡)と並ぶ古墳出現期(3世紀代)の前方後方墳であることが判明しました。

高尾山古墳の歴史的意義

なぜ、高尾山古墳を残さねばならないか。

2012年に刊行された髙尾山古墳の報告書によれば、髙尾山古墳が築造されたのは東海地方の土器編年で云う廻間Ⅱ式の前半期とされている。具体的には3世紀前半のことであり、また、そこに被葬者が埋葬されたのは、その後の3世紀中頃だという。
 このように自らの墓を生前築造して行くことを「寿陵」と呼んでいるが、3世紀前半に築造され、中頃埋葬された髙尾山古墳は「寿陵」として認識された数少ない例としても極めて貴重である。
 3世紀中頃と云えば、あの卑弥呼の没年(247年・248年とされる)とほぼ同じ頃となり、もしかしたら髙尾山古墳の被葬者は卑弥呼と関わりがあったかも知れないと想像も膨らむ。
 その上、最近は奈良の箸墓古墳を卑弥呼の墓とする意見も多くなり、このまま行けば、実は卑弥呼は弥生時代の人ではなく、古墳時代の人と云うことにもなる。
 さらに最近は多くの研究者が、奈良の箸墓古墳を前方後円墳最古のものと評価を与える場合が多い。別の云い方をすればこの箸墓古墳の出現をもって、古墳時代の始まりとされる場合が多い。そうすると髙尾山古墳の方が僅かではあるが箸墓より古くなり、古墳の出現や、前方後円墳と後方墳との関係など考古学や古代史上の新たな問題も惹起されてくる。また、箸墓古墳を定形(企画)化された前方後円墳と捉え、古代国家(政治権力)が成立したとされている。髙尾山古墳はまさにこの頃つくられた県内最古の古墳である。
 また、「本古墳は、(1)墳丘全長62.2mという、この時期としては日本列島屈指の規模をもち、(2)初期古墳の多くが丘陵上に築かれるのとは異なって平地に構築された(実は髙尾山古墳も丘陵の先端につくられている)ために墳丘盛土がよく保存され、(3)埋葬施設の朱塗り木棺から青銅鏡(後漢末)や鉄槍・鉄鏃・鉄ヤリガンナ・石製勾玉など豊富な副葬品が出土した、(4)墳丘や周溝から北陸や近江系の土器が出土して他地域との交流が確認できる、の諸点から、畿内の最初期古墳と肩を並べる駿河の最有力首長墳と考えられます。」とすでに髙尾山古墳の重要性を日本考古学協会は会長名での声明としてだされている。
 さらのその報告書で市内の神明塚古墳(松長所在)や原形復元の難しくなった子ノ神古墳を「纏向型前方後墳」と評価する研究者もいるし、ここに提起された我が国の古代史上の問題を解決するためにも髙尾山古墳は残されなくてはならないと考える。
 それを記念碑を建てたり、移築したらという意見もあるようだが、移築されたものは古墳の模型と見なされるし、記念碑では現物ではなく将来の研究や調査法の進展にそれらの解決を期待するが、いかんせん記念碑ではその進展は充分に活用できない。
 したがって、髙尾山古墳はなんと云っても現地に、少なくも現状のまま残すべきで以上の理由以外にも、髙尾山古墳はこの上もない地域の宝であり、同時に我が国国民が共有すべき歴史遺産でもある。その意味においても髙尾山古墳は現地にそのままの形で残すべきである。
 もう10年位前のことと記憶するが、何処かの博物館の図録に「学過去 知現在 考将来」とあったのを印象的に覚えている。髙尾山古墳から過去を学び、そして現在を知る。さらにそれらを通して将来を考えると読み直せしても、肝腎の古墳が変更していたら大いにガッカリだ。髙尾山古墳はいまや国民共有の歴史遺産となっており、地域の大いなる誇りとなっている。
 いまはなによりも1800年の長きにわたって高尾山古墳を守ってきた地元、西、東熊堂のみなさんに感謝し、今度は私たちもそれを引き継ぎ次の世代に確実に残し伝えて行くべきことと強く思う。

古墳の形  前方後円墳と前方後方墳

※ 最古の前方後円墳とされる箸墓古墳(奈良県)のレーザー測量(アジア航測)(白石:2016)

 平成24年の段階で文化庁は全国の前方後円墳、前方後方墳を含めた円墳(お椀を伏せたような半球形の古墳)、方墳(断面が台形を呈する方形の古墳)と、主として岩場に穴を穿った横穴墓の総数を158,905基と公表した。その内、前方後円墳は5,000基を超える数があり、前方後方墳その1割にも満たない。
 奈良の箸墓古墳などは墳形や副葬品などに企画性が見られ、その頃から古墳時代が始まったとする意見がある。一方、箸墓古墳に先行する100mに満たない前方後円墳もあり、企画性も顕著でなく、規格化が進行しつつあったと理解されている。
 大阪の「近つ飛鳥博物館」館長の白石太一郎さんは、古墳の出現がヤマト政権と呼ばれる政治連合体制秩序の成立と前方後円墳は密接に関係していると云う。さらに古墳の形だけでなく、竪穴式石槨、石棺も共通し、埴輪も墳丘に建てられるようになり、その上副葬品にも似通ったものが多いという。前方後円墳成立はそれが定形型になったことに意味があり、そこから古墳時代が始まり倭国、ヤマト政権などと呼ばれる古代国家もつくられて行くと捉えている(白石:2016)。
 一方、前方後方墳は前方後円墳と当初から併存していたという(広瀬和雄:2003)。さらに各地で併存関係で見られるが、数の上では前方後円墳と比べるとそれぞれの地域で前方後円墳が上回っている。
 下の図でも明らかなように確かに前方後方墳は東北地方に偏って分布しているように見える。そんな状況を踏まえてか、「魏志倭人伝」で卑弥呼の邪馬台国と対立していた狗奴国の存在とあわせて、これを狗奴国の墓制と捉え、前方後方墳の発祥の地と捉えられている尾張・三河を含め、駿河なども狗奴国の一員で、髙尾山古墳は狗奴国との戦いで亡くなった「スルガの王」の墓とする考えもある。

※ 左ー高尾山古墳(沼津市教育委:2012) 右ー初期前方後円(方)墳の分布 (広瀬:2003より)

  しかし、東北地方では一・ニの旧国で前方後方墳が多いが、他は拮抗しているか、前方後円墳の方が数的に勝っている。そのような現状を見ると、そう単純な話ではなさそうである。髙尾山古墳については東北侵攻のための前線基地という捉え方もあるし、狗奴国はスルガを含んだあたりではなく、他の場所ではないかとする考えもある。 
 さらに「魏志倭人伝」にこだわらず、前方後円墳と前方後方墳の関係を江戸幕府の譜代大名と外様大名に見立てて、前方後円墳の被葬者は生前、政治連合権力のなかでその中枢の立ち位置にいたが、前方後方墳の被葬者は外様大名と同じで、政治連合権力の中枢に入ることが出来なかったとする、阪大におられた都出比呂志さんの考えは分かり易い(都出:1991)。